平将門の首塚は本当に祟るのか|「飛ぶ首」と大手町の事故を記録から追う

怪談・伝承

1923年、関東大震災で焼失した大蔵省の跡地に、仮庁舎が建てられました。

その工事では、敷地内に残されていた「将門塚」が壊されます。

数年後、大蔵大臣・早速整爾、工事部長だった矢橋賢吉らが相次いで亡くなりました。やがて省内では、「平将門の祟りではないか」という噂が広がったとされています。

さらに1940年には大手町官庁街で火災が起こり、戦後には塚を整地しようとした際、ブルドーザーが横転して運転者が死亡しました。

ここまでなら、よく知られた「将門の首塚の祟り」です。

しかし記録を遡ると、もう一つ興味深いことが見えてきます。

現在広く知られる「京都に晒された将門の首が、空を飛んで関東へ戻った」という話は、940年当時の記録にそのまま残っているわけではありません。14世紀の『太平記』と、江戸時代の『前太平記』では、首の描かれ方そのものが違います。

では、平将門の首塚には何が記録され、どこからが伝承なのか。そして大手町で起きた事故を、本当に「祟り」と呼べるのでしょうか。

940年の史実から中世・近世の説話、関東大震災後の大蔵省、戦後の保存運動まで、一つずつ記録を追います。

RECORD DATA
分類
怪談・伝承
人物
平将門(生年不詳〜940年)
主な場所
東京都千代田区大手町・将門塚
伝承の層
平安期の史実/中世・近世の首伝説/近代の祟り伝承
近代の転換点
1923年の関東大震災と、その後の大蔵省仮庁舎建設
現在
東京都指定旧跡。2021年に第6次整備事業が竣功

結論|事故は記録に残る。しかし「祟り」は証明されていない

最初に結論を整理します。

将門塚にまつわる話は、すべてが後世に作られた怪談というわけではありません。

1923年の関東大震災後に塚が壊されたこと、その後に大蔵省関係者が亡くなったこと、1940年に火災が起きたこと、戦後の整地作業中にブルドーザー横転事故が起き、運転者が死亡したことは、国税庁の資料でも確認できます。

CONFIRMED RECORD|確認できる記録

「将門塚の周辺で事故や死があった」という部分には、確認できる記録があります。

ただし、「それらを平将門の霊が引き起こした」という因果関係を示す資料は確認できません。

国税庁自身も、大蔵省に関わる祟りが事実であるかどうかについて、確かめようがないという立場を示しています。

つまり玄徴録で分けるべきなのは、次の二つです。

項目現在確認できること
平将門が940年に討死した確認できる
将門の首が京都へ送られた史料・研究上確認できる
現在の大手町に将門塚が存在する確認できる
震災後、塚が壊され仮庁舎が建てられた確認できる
その後、大蔵省関係者に死者が出た確認できる
戦後、ブルドーザー横転死亡事故が起きた確認できる
それらが平将門の祟りだった確認できない
将門の首が京都から空を飛んで大手町へ来た後世の伝承

※公開資料をもとに玄徴録が作成した図解です。

940年|まず、史実上の平将門に戻る

怪談を追う前に、平将門について確認できる記録から始めます。

国文学研究資料館によれば、『将門記』は関東で起きた承平・天慶の乱を扱う軍記で、乱の終結した940年頃、事件からそれほど時間を置かず成立したと考えられています。

将門は当初から「怨霊」として歴史上へ現れた人物ではありません。

関東の有力者だった将門は、一族間の争いや地方行政をめぐる対立へ関わる中で勢力を拡大し、939年には常陸国府などを攻め、自らを「新皇」と称しました。

朝廷から反乱とみなされ、940年2月、藤原秀郷・平貞盛らの軍と戦って討死します。

その首は京都へ運ばれ、晒されたとされています。

CONFIRMED HISTORY|史料から確認できる層

平将門という人物、939年の「新皇」自称、940年の討死、そして首が京都へ送られたという骨格は、後世の怪談とは分けて考える必要があります。

ここから先、将門の「首」は歴史上の遺体の一部から、物語を持つ存在へ変わっていきます。

「飛ぶ首」は940年から語られていたのか

将門の首について最も有名なのは、京都で晒されたあと、身体を求めて東へ飛び去ったという話です。

ところが、この伝説は年代を分けて見る必要があります。

14世紀の『太平記』|首は「飛ぶ」のではなく「語る」

二松学舎大学・小山聡子教授による解説では、14世紀の『太平記』に現れる将門の首は、討たれてから長い時間が経っても変色せず、目を閉じず、身体を求める言葉を発する存在として描かれています。

ここで強調されているのは、「死んだはずの首がなお語る」という異常さです。

江戸時代の『前太平記』|首が東国へ飛ぶ

一方、同じ解説では、将門の首が東国を懐かしみ、空を飛んで武蔵国へ落ちたという姿は、江戸時代の『前太平記』に確認されています。

LATER FORMATION|後世に形を得た「飛ぶ首」

現在は「将門の首が京都から空を飛んできた」という一つの物語として語られます。

しかし資料を時代別に見ると、14世紀『太平記』の「語る首」と、江戸期『前太平記』の「飛ぶ首」は同じ段階の伝承ではありません。

これは小さな違いに見えますが、将門伝説を考える上では重要です。

「940年に起きた出来事」と「数百年後に成立した説話」を一つにしてしまうと、後から加わった怪異が、最初から存在していたように見えてしまうからです。

※公開資料をもとに玄徴録が作成した図解です。

大手町の将門塚に、本当に将門の首があるのか

現在の将門塚は、東京都千代田区大手町にあります。

神田明神では、この場所を将門の首を祀る墳墓であり、同社創建の地でもあると説明しています。

同社に伝わる由緒では、将門ゆかりの人々が首をこの地へ納め、墳墓を築いたとされます。

「将門の首を納めた墳墓である」という説明は、現在まで続く神社・地域の伝承として重要な記録です。ただし今回確認した資料からは、現代的な遺骨鑑定などによって埋葬者を平将門本人と科学的に確定した資料は確認できていません。

したがって玄徴録では、「将門の首が現在もそこに埋まっている」と考古学的事実のようには断定せず、長く伝えられてきた墳墓伝承として扱います。

1307年|すでに「祟りを鎮める場所」になっていた

将門塚の祟りは、20世紀の事故から突然生まれたものでもありません。

神田明神の由緒によれば、嘉元年間(1302〜1305)ごろ、将門塚周辺で天変地異が起こり、住民が苦しんだと伝えられています。

1307年、時宗の僧・真教上人が将門の霊を鎮め、「蓮阿弥陀仏」の諡号を与えたとされます。そして1309年には、将門が神田明神へ合祀されました。

TRADITION RECORD|寺社に残る鎮魂伝承

1307年の鎮魂、1309年の合祀は、神田明神や将門塚保存会が現在も伝えている将門信仰の重要な節目です。

一方、「天変地異が将門の祟りによって起きた」という因果関係そのものは、信仰・伝承の領域として分けて読む必要があります。

ここで一つの構造ができます。

塚が荒れる。異変が起きる。将門の怒りだと理解される。供養する。異変が収まったと語られる。

この構造は、600年以上後の大蔵省でも、よく似た形で再び現れます。

1923年|関東大震災で将門塚の環境が変わる

近代の「将門の祟り」を考える上で、最大の転換点が1923年の関東大震災です。

当時、将門塚は大蔵省の敷地内にありました。

国税庁の記録によれば、大蔵省庁舎は震災で焼失。翌年、跡地へ仮庁舎を建てる際に、首塚が壊されました。

※玄徴録による再現イメージです。実際の写真・証拠資料ではありません。

1926〜1927年|二人の死と「祟り」の成立

塚が壊された後、大蔵省では不幸が続きます。

1926年、大蔵大臣だった早速整爾が亡くなります。

翌1927年には、管財局技師で工事部長だった矢橋賢吉も亡くなりました。

国税庁は、こうした出来事が続いたため、仮庁舎建設に際して塚を壊した「祟り」が噂されるようになり、1927年には鎮魂碑が立てられたと説明しています。

CONFIRMED INCIDENT|死と噂を分ける

早速整爾と矢橋賢吉が亡くなったことは確認できます。

また、その死が将門塚の祟りと結びつけて噂されたことも記録されています。

しかし、「将門の祟りによって二人が亡くなった」ことが確認されたわけではありません。

「14人死亡」はどこまで確認できるのか

将門塚について検索すると、「塚を壊した後、関係者14人が死亡した」という説明を見かけることがあります。

しかし、今回確認した国税庁の説明では「14人」という人数は示されていません。具体的に名前が挙げられているのは早速整爾と矢橋賢吉で、ほかにも不幸が続いたことを背景に祟りが噂された、という書き方です。

また、民俗学者・松崎憲三による1995年の研究を収録する国際日本文化研究センターのデータベースでも、関東大震災後に役人の怪我や病気が続き、幹部に死者が出たことで祟りの噂が広がったことは確認できますが、その要約では「14人」という人数までは確定されていません。

RUMOR / UNVERIFIED|「14人」という数字

「14人死亡」という具体的な数字は広く流布していますが、今回確認した公的資料だけでは、その人数と全員の氏名・死亡事情を検証できませんでした。

そのため本記録では、「14人が祟りで死亡した」を確認済み事実として扱いません。

数字が具体的であるほど、話は強く記憶されます。

しかし、具体的であることと、確認できることは同じではありません。

1940年|大手町官庁街の火災も祟りと結びついた

鎮魂が行われても、将門塚の物語は終わりませんでした。

1940年6月、大手町官庁街で火災が発生し、大蔵省庁舎も焼失します。

国税庁はこの出来事を、落雷による火災として紹介しています。

そして松崎憲三の研究を収録した怪異・妖怪伝承データベースには、この火災も将門霊神の祟りとして解釈され、慰霊祭へ結びついたという伝承が記録されています。

ここでも、確認できるのは「火災が起きたこと」と「それが祟りとして語られたこと」です。

火災そのものが超自然的な力によって起きたことを示す記録ではありません。

戦後|ブルドーザーが横転し、運転者が死亡する

将門塚の祟りを語る上で、もう一つ避けて通れない事故があります。

太平洋戦争後、大手町の旧官庁街は進駐軍によって利用されることになります。

国税庁によれば、米軍が将門塚を整地しようとした際、ブルドーザーが横転し、運転者が死亡しました。

CONFIRMED INCIDENT|戦後の横転事故

ブルドーザーの横転と運転者の死亡は、国税庁も紹介している出来事です。

「事故があった」という部分と、「将門が工事を止めた」という解釈は分けて考えます。

史蹟将門塚保存会に残る記録では、事故後、地元の古老だった遠藤政蔵が現場に残る石塔を将門塚のものだと説明し、関係者とともにGHQ側へ保存を陳情したとされています。

この活動によって塚は残され、その後の保存運動へつながったというのが保存会側の記録です。

PRESERVATION RECORD|保存会に残る戦後の記録

「米軍が祟りを恐れて逃げた」と単純化するのは正確ではありません。

保存会の記録では、事故の後に地域側からGHQへ働きかけ、塚を残すための陳情が行われた過程が語られています。

※玄徴録による再現イメージです。実際の写真・証拠資料ではありません。

「首塚に背を向けて座ると左遷される」はいつの話なのか

将門塚の伝承は、官庁から大手町のオフィスへも広がりました。

国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースには、1995年に発表された松崎憲三の研究として、将門塚周辺の企業では「塚へ尻や背を向けて座ると病気になったり、左遷されたりする」と言われ、机の向きを変えた例もあったという記録が収められています。

興味深いのは、その研究が同時に、「近年では机の配置やビル構造の問題もあり、以前ほどその話を聞かなくなった」と記していることです。

OFFICE FOLKLORE|大手町に残った都市的な祟り

「背を向けると左遷される」という現象が客観的に確認されたわけではありません。

確認できるのは、そのような噂が企業社会の中で語られ、実際の机配置に影響を与えた例が研究上記録されていることです。

中世には天変地異。

大正期には官僚の死。

戦後には工事事故。

そして現代のオフィスでは、病気や左遷。

時代が変わるたび、「将門の祟り」が説明する対象も変わっていることが分かります。

事実・伝承・近代の噂を三つに分ける

層主な内容玄徴録での扱い
史実・記録将門の反乱、940年の討死、京都への首送致、震災後の塚の破壊、関係者の死、火災、戦後の事故資料から確認
寺社・文学の伝承首塚への埋葬、1307年の鎮魂、語る首、空を飛ぶ首成立年代と資料の性質を明示
近代・現代の祟り事故や死の原因が将門だった、背を向けると病気・左遷される噂・民俗として記録

平将門の首塚が特殊なのは、どれか一つだけで成立しているのではないことです。

実在した人物。

実在する場所。

中世から続く鎮魂伝承。

後世の文学。

そして、実際に起きた近代の事故。

それぞれ異なる時代の記録が、一つの塚の上に重なっています。

実在する土地へ後世の噂が積み重なっていく構造は、犬鳴村の記録とも比較できます。犬鳴村でも、実在する地名・峠・トンネルと、後世に形成された都市伝説を切り分けなければ、何が元から存在したものなのか見えなくなります。

なぜ将門塚は大手町に残り続けたのか

「祟りが怖いから、誰も動かせなかった」。

そう説明すると非常に分かりやすいですが、実際の歴史はもう少し複雑です。

将門塚は長いあいだ、寺社による供養、地域住民による信仰、大蔵省による管理、戦後の地元関係者による保存運動、周辺企業を含む保存会の活動といった、複数の人間の働きによって維持されてきました。

1960年には史蹟将門塚保存会が結成され、1971年3月には東京都指定文化財の旧跡となります。

2021年4月には第6次整備事業が竣功し、現在も大手町の高層ビル群の中に祈りの場所として残されています。

つまり将門塚が残った理由を「祟りだけ」で説明してしまうと、逆に、この場所を守ってきた人々の歴史を見失います。

玄徴録の考察|将門塚で本当に繰り返されているもの

ANALYSIS / GENCHOROKU|祟りより確かに残っているもの

将門塚を調べて最も印象に残るのは、「事故が多い場所」ということだけではありません。

塚が大きく改変されるたび、その後に起きた不幸が将門と結びつけられ、鎮魂や保存へ戻っていく――その反復です。

1307年の伝承では、荒れた塚と天変地異が結びつき、供養によって鎮まったと語られました。

1920年代には、震災後に塚を壊した後で関係者が亡くなり、再び鎮魂が行われました。

戦後には、整地の最中に死亡事故が起き、その出来事が塚の保存運動を加速させました。

ここには一つの循環が見えます。

  • すでに特別視されている場所がある
  • その場所へ大きな変更が加えられる
  • その前後に事故・病気・死などが起きる
  • 既存の将門伝承によって出来事が解釈される
  • 鎮魂・復旧・保存が行われる
  • その行為自体が、次の世代に伝承の強さを証明する記録として残る

一度「動かすと祟る場所」という意味が形成されると、その後の偶然の事故も、その枠組みの中で理解されやすくなります。

だからといって、「すべて偶然だから意味がない」と切り捨てる必要もありません。

祟りそのものを実証できなくても、人々が祟りを恐れ、供養し、保存し、都市計画の中にまでその場所を残してきたことは確認できます。

将門塚の本当の異様さは、超自然現象を証明できることではなく、1000年以上前に死んだ一人の人物をめぐる記憶が、東京の中心部でいまも現実の空間を動かしていることなのかもしれません。

そしてもう一つ、記録から確実に言えることがあります。

将門の首は、時代が進むほど怪異としての力を増しています。

940年の死。

14世紀には、死んでも語る首。

江戸時代には、空を飛んで東国へ帰る首。

近代には、その墓を動かせば人が死ぬという祟り。

「平将門の首塚」という怪異は、一夜で完成したのではありません。

約千年にわたり、史実、文学、信仰、事故、都市の噂が積み重なった結果として、現在の姿になったと見る方が、残された資料にはよく合います。

古い伝承のように見える話が、実際にはどの時代に形を得たのかを比較するなら、八尺様の記録も対照的です。こちらは古い民俗を思わせる構造を持ちながら、現在確認できる物語の起点は2008年のネット投稿までしか遡れません。

よくある質問

平将門の首は、本当に大手町に埋まっているのですか?

神田明神や将門塚保存会では、将門の首を納めた墳墓として伝えています。ただし今回確認した資料では、現代の科学的鑑定によって埋葬者を平将門本人と確定した記録までは確認できませんでした。そのため、玄徴録では歴史ある墳墓伝承として扱います。

将門塚を壊した後、本当に14人が死亡したのですか?

「14人」という数字は広く語られていますが、今回確認した国税庁の公式説明は14人という人数を示していません。早速整爾、矢橋賢吉などの死と、それを契機に祟りが噂されたことは確認できますが、14人全員を確認済みの死者数として扱うには追加資料が必要です。

GHQは将門の祟りを恐れて工事を中止したのですか?

ブルドーザー横転死亡事故は国税庁の資料にも記されています。一方、保存会の記録では、事故後に地元関係者が将門塚であることを説明し、GHQ側へ保存を陳情した経緯が語られています。「米軍が祟りを信じたため逃げた」とまで単純化するのは避けた方が正確です。

将門塚は現在も残っていますか?

残っています。東京都指定旧跡として大手町に保存され、2021年4月には第6次改修工事が完了しました。現在も神田明神や史蹟将門塚保存会などによって祭祀・保存活動が続けられています。

まとめ|「祟る墓」ではなく、祟りが記録され続けた場所

平将門の首塚を追うと、奇妙な境界に行き着きます。

940年に平将門が討たれたことは歴史です。

その首が京都で晒されたことも、記録から追えます。

しかし、首が空を飛んだという話は後世の文学へ現れます。

1920年代、1940年、戦後に起きた出来事には記録があります。

しかし、それを将門が引き起こしたという証拠はありません。

それでも、人々は何度もこの場所で将門を思い出し、事故を祟りと語り、鎮魂し、塚を残してきました。

将門塚について確認できる最大の事実は、「祟りが存在すること」ではないのかもしれません。

祟りという物語そのものが、何度も現実の人間を動かしてきたこと。

その記録は、現在も東京・大手町のビルの谷間に残っています。

REFERENCES / SOURCE RECORD

参考・出典