1590年8月18日。
約3年ぶりにロアノーク島へ戻った総督ジョン・ホワイトは、そこに残してきた入植者たちを見つけられませんでした。
家々はそのまま残されていたわけではありません。集落には木の防柵が築かれ、木には「CRO」、防柵の柱には「CROATOAN」という文字が刻まれていました。
しかも、危険に遭って移動した場合に付けると決めていた印は確認されませんでした。
後世、この出来事は「117人が跡形もなく消えた事件」として知られるようになります。
しかし当時の記録を追うと、少し違う姿が見えてきます。
入植者たちは以前からロアノーク島を離れることを検討していました。移動した場合には行き先を残す約束もしていました。そして現在では、ハッテラス島とノースカロライナ内陸部という二つの方向から、彼らとの関係が検討される考古学的資料が報告されています。
では、ロアノーク植民地は本当に「消えた」のでしょうか。
ジョン・ホワイト自身の記録、16世紀の地図、干ばつ研究、現代の発掘成果、そして2026年に発表された新たな主張までを分けながら、117人の行方を追います。
- 分類
- 未解決ミステリー/植民地史
- 主な時期
- 1587年〜1590年
- 場所
- ロアノーク島周辺(現在の米国ノースカロライナ州)
- 入植者
- 117人
- 主要人物
- ジョン・ホワイト
- 主要な手がかり
- 「CRO」「CROATOAN」の刻字/移住計画/考古学的資料
- 現在の状態
- 最終的な行方は未確定
- 調査更新
- 2026年9月22日
- 最初に確認したいこと|117人は「何の痕跡もなく消えた」わけではない
- 1587年|ロアノーク島は本来の目的地ではなかった
- なぜ救援は3年も遅れたのか
- 1590年8月18日|残されていた「CRO」と「CROATOAN」
- なぜホワイトはCroatoanを確認しなかったのか
- 「CROATOAN」は謎の暗号だったのか
- 1587〜2026年|ロアノーク植民地をめぐる記録
- 117人の行方をめぐる主要説
- 2026年、「Lost Colonyは発見された」のか
- なぜ「跡形もなく消えた事件」として残ったのか
- 玄徴録の考察|手がかりは一つではなく、二方向を指している
- 結論|「CROATOAN」は謎の言葉ではなく、残された道標だった
- よくある疑問
- 参考・出典
最初に確認したいこと|117人は「何の痕跡もなく消えた」わけではない
ロアノーク植民地の話を整理するうえで、最初に外しておきたいイメージがあります。
それは、117人がある日突然、行き先を示すものを一切残さず消滅した、というものです。
実際の記録は、そのイメージとは異なります。
- 入植者たちはロアノーク島からの移動を以前から検討していた
- 移動する場合は行き先を木や柱へ刻む取り決めがあった
- 危険に追われて移動した場合には、さらに特別な印を残す約束だった
- 1590年、実際に「CRO」と「CROATOAN」が発見された
- 危険を示す印は確認されなかった
- 現場には急な戦闘や慌ただしい逃走を示す明確な痕跡がなかった
1590年のジョン・ホワイトの記録と米国国立公園局の整理からは、入植者が行き先を残す取り決めをしていたこと、「CRO」「CROATOAN」が発見されたこと、現場に明確な戦闘の痕跡がなかったことが確認できます。
つまり、本当の謎は「彼らがロアノーク島から移動したのか」だけではありません。
移動した後、どこで、どのような運命をたどったのか。
そこから先の記録が途切れていることこそ、ロアノーク植民地最大の空白です。
1587年|ロアノーク島は本来の目的地ではなかった
1587年、ジョン・ホワイトが率いる入植者たちはイングランドを出発しました。
彼らには女性や子どもも含まれており、1585年の軍事的な植民計画とは異なる、恒久的な生活拠点を築くことが想定されていました。
ただし、目的地はロアノーク島ではありません。
米国国立公園局の資料によると、一行はさらに北にあるチェサピーク湾へ向かい、そこで新たな植民地を築く計画でした。
ロアノーク島へ立ち寄ったのは、前年の遠征で残された人々を探すためでした。
ところが航海を担当していたシモン・フェルナンデスが、それ以上北へ入植者を運ぶことを拒否します。
結果として、一行は予定外だったロアノーク島に留まることになりました。

※玄徴録による再現イメージです。実際の写真・証拠資料ではありません。
食料と周辺関係の不安定さ
ロアノークでの生活は、最初から安定していたわけではありませんでした。
入植者ジョージ・ハウが殺害された後、ホワイトらは報復に出ます。
しかし米国国立公園局によれば、彼らが攻撃したのは敵対相手と考えていた集団ではなく、それまで友好的だったCroatoan側の人々でした。
攻撃はCroatoan出身でイングランド側と行動していたManteoによって止められたとされています。
食料供給も不安定でした。
冬が近づくなか、入植者たちは追加の人員と物資を求めるため、ホワイトをイングランドへ戻すことを決めます。
ホワイトが出発する前から「移動」が計画されていた
後世の「突然消えた」というイメージと大きく異なるのが、この部分です。
米国国立公園局の1587年の解説では、ホワイトが出発する前、残された人々は二つの集団へ分かれる計画を立てていたとされています。
一方はロアノーク島に残り、もう一方は食料やより良い土地を求めて内陸へ向かうという計画です。
さらにホワイト自身の記録には、入植者がロアノーク島から約50マイル内陸へ移る準備をしていたことも記されています。
そして全員が島を離れる場合には、移動先を木や柱に刻んでおく。
もし危険に追われて移動したのであれば、そのことが分かる印も加える。
この取り決めが、3年後に発見される「CROATOAN」を理解する重要な前提になります。
なぜ救援は3年も遅れたのか
ホワイトは1587年にイングランドへ戻りました。
もちろん、3年間も入植者を残したままにする予定ではありませんでした。
しかし1588年、イングランドとスペインの軍事的緊張が頂点に達します。
スペイン無敵艦隊への対応のため、イングランドの船舶は本国防衛へ回されました。
ロアノークへの救援航海は遅れます。
ホワイトが再び北米へ向かう機会を得られたのは、1590年になってからでした。
この約3年間の空白は大きな意味を持ちます。
仮に入植者が1587年末にロアノーク島を離れていたなら、ホワイトがその跡を追えるのは数年後です。
その間に、食料不足、病気、周辺社会との関係、さらなる移動など、状況はいくらでも変化し得ます。
1590年8月18日|残されていた「CRO」と「CROATOAN」
1590年8月18日、ホワイトはロアノーク島へ戻りました。
しかし、期待していた入植者たちの姿はありません。
そこで確認されたのが、木に刻まれた「CRO」という3文字でした。
さらに集落跡へ進むと、防柵には「CROATOAN」と刻まれていました。
現在、この単語だけを見ると不可解な暗号のようにも感じられます。
しかしホワイトにとって、意味不明の言葉ではありませんでした。
Croatoanは、現在のハッテラス島方面に暮らしていた人々と、その地域を指す名称でした。
しかも、危険な状況で移動したことを示す約束の印はありませんでした。

※1590年の記録内容をもとに玄徴録が作成した図解です。
移動先を残すことは事前に決められていた合図でした。そのためホワイトは「CROATOAN」を見て、残してきた人々がCroatoanへ移った可能性を考えています。
現場に戦闘の跡はあったのか
米国国立公園局は、1590年の現場について、戦闘や慌ただしい離脱を示す兆候はなかったと整理しています。
ホワイトの記録でも、家屋は単純に焼け落ちていたというより、取り外された状態として記述されています。
重い物資の一部は残っていました。
一方、船など一部の装備は見つかりませんでした。
これらは、入植者が突然その場から消滅したというより、ある程度の準備をして移動した可能性と整合します。
人の姿はない。「CRO」「CROATOAN」が残されている。明確な戦闘痕跡はない。家屋はなく、防柵が残る。一部の重い物資は残り、船など一部の装備は見当たらない。この現場記録だけを見る限り、「何も残さず一瞬で消えた」という説明とは一致しません。
なぜホワイトはCroatoanを確認しなかったのか
「CROATOAN」と書かれていたのなら、そこへ向かえばよい。
当然、ホワイトもそう考えました。
しかし救援航海はすでに厳しい状況にありました。
上陸作業では船員を失う事故も起きています。
その後、天候と海況の悪化によってCroatoan方面へ向かう計画は実行できませんでした。
ホワイトは結局、自分の娘エレノア、娘婿アナニアス・デア、孫のヴァージニア・デアを含む入植者たちがCroatoanにいたのか確認できないまま、イングランドへ戻ることになります。
ここに、ロアノーク最大のすれ違いがあります。
行き先らしき手がかりはあった。しかし、その手がかりの先を確認できなかった。
「CROATOAN」は謎の暗号だったのか
後世の都市伝説的な語りでは、「CROATOAN」という言葉そのものが怪異のように扱われることがあります。
しかし1590年の記録に限れば、その理解は適切ではありません。
Croatoanは当時実在した人々と場所を指す名称です。
ホワイトもその意味を理解していました。
「謎の言葉を残して117人が消えた」という紹介は印象的ですが、一次記録ではCROATOANは既知の名称でした。不可解なのは言葉の意味ではなく、その場所を確認できなかったことです。
1587〜2026年|ロアノーク植民地をめぐる記録
| 時期 | 確認できる出来事 |
|---|---|
| 1587年7月 | ホワイト率いる入植者一行がロアノーク島へ到着。本来の目的地はチェサピーク湾だった。 |
| 1587年8月 | 食料と安全上の問題から、ホワイトが物資を求めイングランドへ戻る。 |
| 1587年 | 残る入植者には集団を分けて内陸へ移る計画があったとNPSは整理している。 |
| 1587〜1589年 | 年輪研究では、この地域が約800年間で最も極端な干ばつに直面したと推定される。 |
| 1588年 | スペイン無敵艦隊への対応などで救援が遅れる。 |
| 1590年8月18日 | ホワイトが帰還。入植者は不在。「CRO」「CROATOAN」が発見される。 |
| 2012年 | ジョン・ホワイト作「La Virginea Pars」の貼紙の下に、砦または集落を示した可能性のある記号が確認される。 |
| 2010年代〜 | 現在のBertie County周辺でSite Xなどの発掘調査が進む。 |
| 2026年3月 | ハッテラス島での発掘をめぐり、新しい放射性炭素年代などを扱う研究発表が行われる。 |
| 2026年6月4日 | First Colony FoundationがSite X・Site Yを根拠に「The Lost Colony is Found!」とする発表を公開。 |
| 2026年9月20日 | 米国国立公園局は更新後の公式ページでも、最終的な行方は決定的に証明されていないと整理。 |

※公開資料をもとに玄徴録が作成した位置関係図です。移動経路を確定するものではありません。
117人の行方をめぐる主要説
ロアノーク植民地については、400年以上にわたり数多くの説が語られてきました。
ただし、すべての説に同じ強さの証拠があるわけではありません。
1|Croatoan、現在のハッテラス島へ移った説
最も直接的な根拠は、やはり「CROATOAN」という刻字です。
入植者が移動先を残す取り決めと一致しており、ホワイト自身もCroatoanへの移動を考えました。
さらに現在のハッテラス島では、16世紀後半のエリザベス朝期に由来するヨーロッパ系遺物が報告されています。
2026年3月には、Croatoan Archaeological Societyなどの研究者が、ハッテラス島で得られた新たな放射性炭素年代や狩猟活動とFort Raleighとの関係について発表しました。
一方で、ここから「117人全員がハッテラス島へ移住した」と断定することはできません。
米国国立公園局は、Lost Colonyに決定的に結びつく人骨、墓、建物、村落跡は確認されていないとしています。
発見されたヨーロッパ系の物品が、交易によって先住民社会へ渡った可能性も残ります。
「CROATOAN」という一次記録と、ハッテラス島で発見された同時代の物質文化は重要な材料です。ただし、「1587年の117人の誰がそこにいたのか」を直接特定した証拠には至っていません。
2|約50マイル内陸へ移動した説|Site XとSite Y
近年、大きく進んだもう一つの説が内陸移住説です。
その手掛かりの一つが、ジョン・ホワイトが作成した地図「La Virginea Pars」でした。
この地図には、制作当時に貼られた紙片があります。
2012年、その下を透過して調査したところ、現在のBertie County付近に、砦または集落の位置を示した可能性のある記号が確認されました。
ただし、この記号が何を意味するのかは確定していません。
米国国立公園局も「possible fort or settlement location」という慎重な表現を使っています。
First Colony Foundationは、この周辺でSite Xと呼ばれる地点を調査しました。
そこで16世紀末のイングランドに関連する陶器片などが見つかり、さらにアウクスブルク由来と解釈された鉛製のcloth sealも報告されています。
その後、上流側のSite Yでもエリザベス朝期の遺物が発見されたとして、First Colony Foundationは2026年6月、従来より大きく踏み込んだ発表を行いました。
First Colony Foundationは2026年6月4日、Site XとSite YをChowan River沿いに形成されたLost Colonyの分散集落とみなし、「The Lost Colony is Found!」と発表しました。重要な研究上の主張ですが、米国国立公園局は2026年9月現在も、Bertie Countyの遺物がLost Colonyと決定的に結びついたとはしていません。
ここは、2026年現在のロアノーク研究で最も注意して読む必要がある部分です。
「調査団体が発見を主張した」ことは確認できます。
しかし、それと「学術的に117人の行方が完全に解決した」は同じ意味ではありません。
3|一つの場所ではなく、複数集団へ分かれた説
117人全員が同じ場所へ移動したと考える必要もありません。
ホワイトが出発する時点で、すでに集団を分ける計画があったとされています。
さらに記録には、約50マイル内陸への移動計画と、「CROATOAN」という別方向を示す手掛かりの両方があります。
もし一部が内陸へ、一部がCroatoanへ向かったのであれば、この二つの情報は必ずしも矛盾しません。
現在、ハッテラス島とBertie County周辺の双方から16世紀末のイングランドとの関係が検討される資料が見つかっていることも、分散説とは整合します。
ただし、何人ずつ分かれたのか、いつ移動したのか、その後さらに移動したのかは分かっていません。
4|干ばつと食料不足
入植者たちを取り巻いていた環境にも、重要な記録があります。
1998年、Scienceに掲載された年輪研究では、1587〜1589年の干ばつが、復元された約800年間のなかで最も極端なものだったと報告されました。
ロアノークの植民計画は、食料供給が不安定な状態でこの干ばつに直面したことになります。
別の土地を求める必要性や、周辺社会への依存を強めた可能性を考えるうえで重要な材料です。
しかし、「干ばつが起きた」ことから「117人全員が飢餓で死亡した」と結論づけることはできません。
そのような最終結果を直接示す証拠は確認されていません。
5|ハリケーン・スペイン・チェサピーク湾
ほかにも、ハリケーンによる壊滅、スペイン勢力による攻撃、本来の目的地だったチェサピーク湾への移住などが提案されてきました。
ただし、1590年の現場には大規模な破壊や戦闘を明確に示す状況が確認されていません。
チェサピーク湾についても、後のジェームズタウン入植者がLost Colonyに関係すると考えられる話を聞いた記録はありますが、決定的な考古学的証拠は確認されていません。
| 説 | 主な根拠 | 残る問題 |
|---|---|---|
| Croatoan/ハッテラス島 | 「CROATOAN」の刻字、ホワイト自身の解釈、同時代のヨーロッパ系遺物 | Lost Colony本人と確定する墓・建物・集落が未確認 |
| Albemarle/Chowan内陸部 | 約50マイル内陸への移動計画、地図の隠れた記号、Site X・Y | First Colony Foundationの主張は強まったが、公的機関は決定的関連を認定していない |
| 複数集団への分散 | 出発前の分割計画、二方向に手掛かりが存在 | 人数や具体的な移動経路が不明 |
| 干ばつ・食料危機 | 1587〜1589年の極端な干ばつを年輪研究が支持 | 最終的な移動先や死亡状況までは説明できない |
| 攻撃・自然災害 | 当時の地域情勢や自然環境から提案されてきた | 1590年の現場に全滅を直接示す証拠がない |

※2026年9月時点で公開されている資料の立場を玄徴録が整理した図解です。
2026年、「Lost Colonyは発見された」のか
2026年現在、この問いには慎重に答える必要があります。
2026年6月4日、First Colony Foundationは「The Lost Colony is Found! How We Did It.」という記事を公開しました。
団体はSite XとSite Yを、Chowan River周辺に形成された分散型の入植地と解釈しています。
長年発掘を続けてきた研究団体が、ここまで強い表現を使ったことは大きな変化です。
ただし、2026年9月20日に更新された米国国立公園局の公式ページでは、Lost Colonyに何が起きたのかは依然として決定的に証明されていないとされています。
内陸部で発見された遺物についても、人骨、墓、建物、村落跡など、1587年の入植者を直接特定する証拠は確認されていないという整理です。
ハッテラス島側でも同様です。
調査は進んでいます。
しかし、117人それぞれの最終的な行方を特定した状態ではありません。
なぜ「跡形もなく消えた事件」として残ったのか
ここまで記録を追うと、ロアノークには意外なほど多くの徴が残っています。
- ロアノーク島から移動する計画
- 約50マイル内陸という方向
- 移動先を刻むという約束
- 「CROATOAN」という具体的な名称
- 危機を示す印が確認されなかったこと
- 戦闘や慌ただしい逃走を示す明確な痕跡がなかったこと
それでもLost Colonyになった理由は、その先が途切れているからです。
ホワイトはCroatoanへ行くことができませんでした。
内陸へ移った人々がいたとしても、救援は約3年遅れました。
その後の記録にも、117人を一人ずつ追跡できる連続した資料は残っていません。
彼らは、痕跡を何一つ残さず「消えた」のではありません。
英語側の記録から、途中で見失われた。
そう考えると、この事件の姿は大きく変わります。
現存する資料に最も整合するのは、117人がロアノーク島で突然消滅したという像ではありません。ホワイト不在中に計画的な移動が始まり、その後、複数地点へ分散した可能性を含め、英語側から追跡できなくなったと考える方が、一次記録と現在の考古学的状況を同時に説明しやすくなります。
玄徴録の考察|手がかりは一つではなく、二方向を指している
ロアノーク植民地について現在残る資料を並べると、一つの場所だけですべてを説明する方が難しくなります。
まず1590年の記録には、「CROATOAN」という具体的な名称があります。
一方でホワイトの記録と米国国立公園局の整理には、約50マイル内陸へ移動する計画も残っています。
そして現代の考古学では、南側のハッテラス島と、西側のBertie County/Chowan River周辺という二方向から、それぞれ16世紀末のイングランド人との関係を検討する資料が報告されています。
このため玄徴録では、現時点で資料と比較的整合する可能性として、入植者が一団のまま一地点へ移ったのではなく、複数の小集団へ分かれたという見方を重く見ます。
一部がCroatoanへ向かい、別の一部が内陸へ向かったのであれば、「CROATOAN」と「50マイル内陸」という二つの手掛かりは両立します。
1587〜1589年の極端な干ばつも、食料を得るために集団が分散する圧力になった可能性があります。
ただし、それでも分からないことは多く残ります。
- Croatoanへ実際に移った人数
- 内陸へ向かった人数
- 移動が一度だったのか、段階的だったのか
- それぞれの集団がどれほど長く存続したのか
- 周辺の先住民社会へ加わった人がいたのか
- ヴァージニア・デアを含む個々の入植者の最終的な行方
考古学的な候補地を発見することと、117人の人生を一人ずつ特定することの間には、まだ距離があります。
だからロアノークの謎は、2026年になって消えたわけではありません。
問いの形が変わりつつあるのです。
以前の問いは、
「117人はどこへ消えたのか」
でした。
現在は、
「彼らはいくつの集団に分かれ、どこまでたどり着いたのか」
という問いへ近づきつつあります。
結論|「CROATOAN」は謎の言葉ではなく、残された道標だった
1590年に残されていた「CROATOAN」は、意味不明の最後の言葉ではありませんでした。
それは、移動した場合に行き先を知らせるという取り決めに沿った、具体的な場所を示す可能性の高い記録でした。
現場には明確な戦闘の跡も確認されていません。
しかしホワイトは、その道標の先へ行くことができませんでした。
内陸へ向かう計画もあった。
Croatoanを示す文字も残った。
それでも救援の空白が長すぎたため、117人の足跡は途中から複数の可能性へ枝分かれしていきます。
2026年、Site XとSite Yを調査するFirst Colony Foundationは「Lost Colonyは発見された」とする強い主張を発表しました。
ハッテラス島でも新たな研究が続いています。
それでも米国国立公園局は、最終的な行方について決定的な証明には至っていないという立場を維持しています。
何の痕跡もないから不可解なのではありません。
行き先を示す文字まで残っている。
それなのに、その先の記録だけが途切れている。
ロアノーク植民地に残る謎は、そこにあります。
よくある疑問
CROATOANとは何ですか?
当時存在した人々と場所の名称です。現在のハッテラス島方面にあたり、ジョン・ホワイトは1590年に刻字を発見して、入植者がCroatoanへ移動した可能性を考えました。
117人は全員同時に消えたのですか?
それを示す記録はありません。入植者たちは以前から移動を検討しており、集団を分ける計画も記録されています。複数地点へ分散した可能性がありますが、具体的な人数や経路は確定していません。
2026年にロアノーク事件は解決したのですか?
First Colony Foundationは2026年6月4日にSite X・Yを根拠として「発見」を主張しました。一方、2026年9月20日更新の米国国立公園局公式情報では最終的な行方は決定的に証明されていません。現時点では完全解決と断定せず、新しい考古学的主張が提示されている段階として扱う必要があります。
超常現象を示す証拠はありますか?
今回確認した一次資料、公的資料、研究資料のなかに、超常現象を必要とする証拠はありません。移住計画、救援の遅れ、食料問題、干ばつ、複数の移住候補地という歴史的要因から検討することができます。
参考・出典
【公的資料】
U.S. National Park Service「The Lost Colony」
確認内容:117人という人数、ロアノーク植民地の基本経緯、2026年9月20日更新時点の公式な位置づけを確認。
【公的資料】
U.S. National Park Service「1587: The Lost Colony」
確認内容:本来の目的地、食料と安全上の問題、Croatoan側への誤攻撃、ホワイト出発前の集団分割・内陸移動計画を確認。
【公的資料】
U.S. National Park Service「1590 Voyage」
確認内容:1590年8月18日の帰還、「CRO」「CROATOAN」、現場に明確な戦闘・慌ただしい離脱の痕跡がなかったこと、Croatoanへ向かえなかった経緯を確認。
【公的資料】
U.S. National Park Service「Major Theories of the Lost Colony」
確認内容:Croatoan、Albemarle Sound、Chesapeake Bayなどの主要説、それぞれの根拠と未解決点を確認。
【一次資料案内】
National Humanities Center「John White, Fifth Voyage of John White, excerpts」
確認内容:1590年の救援航海について、ジョン・ホワイト自身の記録が一次資料として収録されていることを確認。
【研究論文】
Stahle, D. W. et al.「The Lost Colony and Jamestown droughts」Science 280, 564–567 (1998)
確認内容:1587〜1589年が復元された約800年間で最も極端な干ばつだったとする年輪研究を確認。
【公的資料/考古学】
U.S. National Park Service「The History of Archeology in Fort Raleigh National Historic Site」
確認内容:ジョン・ホワイトの地図の貼紙下から確認された記号、Bertie CountyでのSite X調査と同時代遺物について確認。
【博物館資料】
The British Museum「La Virginea Pars」透過画像
確認内容:ジョン・ホワイト作地図の貼紙部分が透過撮影されていることを確認。
【研究団体発表】
First Colony Foundation「The Lost Colony is Found! How We Did It.」
確認内容:Site X、Site Y、cloth sealなどを根拠に、Lost Colonyの分散集落を発見したとする2026年6月4日の団体側の主張を確認。
【研究機関発表】
Coastal Studies Institute「Croatoan Archaeological Society Presents at March Science on the Sound」
確認内容:2026年3月、ハッテラス島の新しい放射性炭素年代と16世紀の狩猟活動をFort Raleighと比較する研究発表が行われたことを確認。


